2020年1月26日日曜日

有機物試料の分解法(2) 硫酸鉛の処理方法

前回、「硫酸鉛は溶かせない!」と信じる正社員が有機物(石炭)を硝酸と過塩素酸で分解する話でした。今回は派遣社員が有機物(石炭)を硝酸と硫酸で分解し、生成した硫酸鉛を溶かす話です。
前回の話はこちら


1.挑戦者

正社員が石炭の分解に失敗したという噂は、瞬く間にラボ全体に行き渡った。もう石炭を分解できる者などいない...ラボの職員たちはみな絶望に打ちひしがれ、希望を失った課長が「外注に出そう…」と言ったその時だった。

「私に任せてくれませんか?」

皆が振り向いたその先に居たのは派遣社員だった。派遣社員の右手には石炭の入ったビーカーが握られており、これからあの石炭と一戦を交える覚悟を決めていたのだった。


2.派遣社員 VS 石炭

ガラスビーカーの内側で威風堂々とした石炭の姿に圧倒されながらも、派遣社員が最初に取り出したのは硫酸。これを慎重に加え、ビーカーを熱板にのせた。

硫酸を浴びた石炭からムクムクと気泡が膨れだし、ビーカーの壁を登っていくが、硝酸を加えたときと比べれば、慌てるほどではない。
硫酸白煙が発生する頃には、ビーカーの中の石炭は漆黒の液体へと変貌を遂げていたが、さらに20分ほど加熱を続けた。この過程で熱濃硫酸が持つ酸化力を利用し分解を進めるようだ。

 20分後、熱板から下ろして冷ましたビーカーに加えたのは硝酸。加えた硝酸と硫酸がよくなじむように軽く振り混ぜ、再び熱板にのせると、硝酸から発生した褐色の二酸化窒素と蒸気が壁面に付着した試料を洗い落としていく。このまま硫酸白煙が発生するまで加熱を続けたあと、ビーカーを熱板から下ろし、冷めたところで再び硝酸を加えた。

『硫酸白煙→放冷→硝酸』の攻撃を繰り返す派遣社員、この攻撃に耐える石炭、勝敗の見えぬ死闘が続く。戦闘が始まって数時間が経とうとしたそのとき、石炭に変化が!

漆黒の溶液が僅かに橙色に変化したのだ!
ここぞとばかりに『硫酸白煙→放冷→硝酸』攻撃をしかける派遣社員の前に、石炭は為す術もなく分解されたのであった。あっけないものだ。あの漆黒の溶液が今やカナリアを思わせる淡黄色へとその姿を変えていたのだ。

しかし、喜ぶのはまだ早い。硫酸鉛が残っている。


3.硫酸鉛の処理方法

JIS K0102 5.4には、試料に鉛が含まれていて沈殿を生じる場合、次の操作を行うと記されている。

硫酸と硝酸による分解を行い、溶液をほとんど蒸発乾固し、水約30mlと塩酸15mlとを加えて加熱して溶かす。

つまり、硫酸鉛は塩酸に溶ける。塩酸だけじゃない、硝酸にだって溶ける。
硫酸鉛が溶けないのは水だけ。硫酸鉛が酸に溶けないと信じている分析員がなぜか一定数いる。

さて、分解の続きをしよう。
有機物を分解したビーカーを熱板から下ろし、放冷後に加えるのは過酸化水素水。
これを熱板にのせると、過酸化水素水から発する蒸気でビーカーの内壁や時計皿に付着している分解液等が洗い落とされる。過酸化水素水の反応が収まったところで、熱板からビーカーを下ろして冷ます。

水で時計皿の内側とビーカーの内壁に付着している過酸化水素水を洗い落とし、今度は時計皿を外した状態で熱板にのせ、硫酸を蒸発乾固させる。(この過程で分解液が再び茶色くなるようなら、熱板から下ろして冷ました後、硝酸を1~2ml添加し、再び熱板にのせる)

硫酸が蒸発乾固したら、ビーカーをゆっくり熱板から下ろして放冷した後、これに塩酸を加えて加熱して硫酸塩を溶かす。
硫酸塩の溶解を確認したら水を加え、ろ紙5種Bもしくは6種を用いて溶液をろ過する。ろ紙は温塩酸(1+10)で洗浄し、ろ液と洗液は適当な容量の全量フラスコに移し入れて定容し、適切な方法でこの溶液に含まれる鉛を定量する。


4.硫酸鉛は溶けたのか?

硫酸鉛が塩酸に溶けることを認めたくない正社員が言う。

「硫酸鉛がこの方法で溶けたという証拠はあるのか?」

派遣社員は1枚の分析結果を記した書類を正社員の前に差し出した。
それは、今回の実験に並行して行われた添加回収試験の結果であった。

添加量10ppm、回収率94.5%

硫酸鉛が塩酸に溶解したことを示すには十分だろう。
こうして勇気ある派遣社員の活躍によって、ラボは再び普段と変わらぬ日常を取り戻したのだった。


5.おまけ

添加回収試験については鉛だけではなく、下記の元素についても行いました。

Cd:回収率100.9%
Ni:回収率101.8%
Cr:回収率98.9%
Cu:回収率97.5%
Zn:回収率111.4%(コンタミかなぁ...)


また、こんな疑問を持つ方がいらっしゃるかもしれません。

「真っ白な硫酸鉛がビーカーの底を覆うほどの量でも、塩酸や硝酸で溶けるのか?」

「それはさすがに無理です!」

まあ、これほど高濃度の鉛を取扱う人は限られると思いますし、そのような方は当然知っていると思いますが、この場合は酢酸アンモニウム温溶液で溶かすことができます。
事実、鉛を他の元素から分離する方法として、硫酸鉛沈殿分離法(JIS M8123)がありますし、ちょっと古い定性分析の文献には、第2属の鉛の分離方法として記載されています。(気になる方は参考文献をご覧ください)

昔の化学系の学生さんたちは属別分離の定性分析の実習は必修だったらしいですね。こうした基礎教育がなおざりにされた結果、「硫酸鉛は溶かせない」といった間違った認識が一部の化学分析屋の間で広まってしまったのかもしれません。


参考文献
JIS K0102:2013「工場排水試験法」、日本規格協会
JIS M8123:2006「鉱石中の鉛の定量方法」、日本規格協会
高木誠司:「新定性分析化学 中巻・イオン反応編」、南江堂、1970
武藤義一:「定性分析<常量法>」、実教出版、1979
原口紘き、黒沢雅夫、岩田泰夫:分析化学、34(1985)、p252-257
南秀明、西内滋典、門野純一郎、中原武利:分析化学、54(2005)、p1107-1111


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※この話はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。