2019年10月30日水曜日

金属鉄の分析方法

 ある日、若手正社員さんが中年正社員から、次のような業務命令を受けました。

「スラグに含まれる金属鉄を分析して!」

分析方法はJIS A5011-2の附属書Aに記載されているので、それに従って分析を進めればよいのですが...分析を担当する若手正社員さんは少し不安です。

この分析は試料を臭素メタノール溶液で金属鉄を抽出するのですが、どういったメカニズムで金属鉄が試料から抽出できるのか皆目見当がつきません。
というわけで、わたしが金属鉄の分析方法について若手正社員さんにレクチャーします。


1.金属が臭素メタノール溶液で溶けるそのメカニズムとは?
臭素はハロゲンの仲間であり、ハロゲンはどれも酸化力が強いことが特徴でした。そして、強い酸化力は金属を溶かします。
2Fe + 3Br2 → 2FeBr3

つまり、強い酸化力があれば臭素でなくてもいいのです。

事実、以前はヨウ素メタノール溶液で金属を溶かす方法も研究されていましたが、この方法は微量の酸素および水分を避ける必要があるため実験装置が大掛かりなものとなり、操作も複雑だったため実用的ではなかったそうです。

また、臭素メタノール法が採用される前は塩化第二水銀法(昇汞法)が金属鉄を抽出する一般的な方法でした。この方法は微粉砕した試料を炭酸ガス気流中で昇汞溶液(HgCl2)と加熱することで、塩素が金属鉄を溶解します。
Fe + 2HgCl2 = FeCl2 + Hg2Cl2
Fe + HgCl2 = FeCl2 + Hg

2.メタノールの役割は?
『似たものどうしは良く溶け合い、似ていないものどうしは溶けない』という話を聞いたことはありますか?

これは、溶質と溶媒の関係をうまく表現しています。すなわち、極性分子は極性溶媒に良く溶け、無極性溶媒にはあまり溶けないことを意味します。

臭素に限らずハロゲンの単体は二原子分子なので無極性です。無極性な分子である臭素は極性溶媒である水にはあまり溶けません。
その一方で、極性の小さい溶媒である四塩化炭素や、極性が中程度の溶媒であるメタノールには溶けます。(MSDSによると、臭素の溶解度は20℃の水100mlに対して3.1 g溶解、有機溶媒に可溶とあります。)

つまり、メタノールは臭素の溶媒としての役割だけであり、金属の溶解には関係がないのです。

3.本当に金属鉄のみが溶けて、酸化鉄は溶解しないのか?
「百聞は一見に如かず」なので、自身で実験をして確認するべきですが、コスト削減と効率化が叫ばれる中、それが難しいのも事実です。

ここでは、物質工学工業技術研究所の中里氏の研究が参考になると思います。その研究内容とは。。。「金属を溶かす有機溶媒系について」です。

中里氏によると、金属を溶かす溶媒系は「ハロゲン単体、ハロゲン化物、有機溶媒」の3者で構成されます。

たとえば、塩素+トリメチルアミン塩酸塩+アセトニトリルの混合溶液は王水よりも速くAuを溶解します。また、面白いことに有機溶媒系の組合せによりAgだけが溶解しない、Niだけが溶解しないなどの組み合わせもあるそうです。

このように、金属に対してすばらしい溶解性を示す有機溶媒系ですが、金属の酸化物は苦手で、長時間かけてもなかなか溶解しないものが多く、特に鉄の酸化物に対しては全く溶解しません。

4.なぜ、スラグ中の金属鉄含有量を調べるのか?
臭素メタノール溶液が金属を溶かすそのメカニズムの説明と中里氏の研究を紹介してきたわけですが、最後にスラグ中の金属鉄の含有量を調べる目的について紹介しましょう。

コンクリートはセメント、水、骨材から構成されていますが、骨材としてスラグが使用されるものがあります。仮にそのスラグが金属鉄を含有していた場合、コンクリート内部で金属鉄が酸化してしまう可能性があります。鉄が酸化すると熱膨張を起こし、結果的にポップアウト現象というものを引き起こします。これはコンクリート劣化現象の1つで、コンクリートの表面が薄い皿状に剥がれ落ちる現象のことです。つまり、スラグ中の金属鉄分析はコンクリート用骨材の品質・安全性を証明する手段の1つなのです。



5.参考文献・参考資料
JIS A5011-2
J.N.Spencer, G.M.Bodner, L.H.Rickard『スペンサー基礎化学』東京化学同人, 292-295
亀田和久『無機化学が面白いほどわかる本』KADOKAWA , 91-107
高木誠司『定量分析の実験と計算 第二巻』共立出版, 281
若松茂雄:分析化学, 14, 297 (1965)
中里幸道:資源処理技術, 44, 155 (1997)
中里幸道:日本金属学会会報, 32, 619 (1997)

2019年10月19日土曜日

炭素の混成軌道

1.電子殻の内側には電子が住むアパートがある⁉

メタンやエチレン、アセチレンなどの構造図をみると、炭素には結合できる手が4本あることに気づきます。

そして、原子番号が6である炭素には全部で6個の電子があり、そのうちの2個がK殻に、残りの4個がL殻に配置されています。

ここまでは高校で学習する内容ですが、高校を卒業するとK殻やL殻といった電子殻のさらに内側にまで学習範囲が広がります。

ここからは話を分かりやすくするために、炭素原子の内側に図のような2階建てのアパートがあると想像してください。このアパートの住人は電子です。

このアパートでは1階のことを『K殻』、2階のことを『L殻』とよび、K殻には家賃の安い『S』タイプの部屋が1つ、L殻には家賃が標準の『S』タイプの部屋が1つと家賃の高い『P』タイプの部屋が3つあり、アパート全部で5つの部屋があります。

どの部屋も定員が2名(電子2個)という決まりがあるので、アパート全体では最大10名(電子10個)が利用できます。

次に、アパートの住人である電子について説明しましょう。彼らには3つの性質があります。

  1. 安い部屋に住むことに価値があり、そのためならルームシェアをする。
  2. しかし、可能ならルームシェアは避けたい。
  3. 同じアパートの住人同士とは距離を取りたがるが、他所のアパートの電子と何らかの関係を結びたがる。

これらを踏まえて、このアパートの住人たちの部屋割りを考えると次のようになります。
ちなみに、電子は『↑』で表し、相部屋の場合は『↑↓』のように、矢印を逆向きに表します。

最も家賃の安い1階の『S』タイプの部屋は、2人の電子がルームシェアをします。次に家賃の安い2階の『S』タイプの部屋も同様です。最も家賃の高い『P』タイプの部屋は3つあるので、ルームシェアを避けます。

電子が独りで住んでいる部屋が2つありますね。これが不対電子です。
でも、高校では炭素原子の原子価は4価と習ったので、不対電子は4つのはずです。おかしいと思うかもしれませんがこの状態を基底状態といい、高校で習った不対電子が4つの状態を励起状態といいます。


2.励起状態とは?

励起状態を理解するには、婚活に例えるのが良いかもしれません。2階の住人たちが婚活をはじめたとしましょう。ルームシェアをしていたら、婚活が思うように上手くいきませんので、2階の『S』タイプの住人はルームシェアを解消することにします。ひとりが空き部屋である『P』タイプの部屋に引っ越すことになるので、これまでよりも多くの家賃を払うことになります。
このように、婚活のために家賃の高い部屋に引っ越した状態のことを励起状態といいます。


3.SP3混成軌道とは?

2階の住人たちが婚活をはじめたことで励起状態となり、不対電子が4つになりました。ところが、問題が1つあります。電子には安い部屋に住むためなら、ルームシェアをするという性質があるほど安い部屋が大好きです。そのため、婚活市場においても家賃が安い部屋に住んでいることが重視されます。ですから、家賃の高い『P』タイプよりも家賃の安い『S』タイプに住んでいる電子のほうが婚活では有利です。
そこで、住人たちの婚活を応援したいアパートの大家さんは、家賃を見直すことにしました。『Pタイプ』の家賃を下げ、『Sタイプ』の家賃を上げることで、『Pタイプ』と『Sタイプ』の家賃を同一にしたのです。この家賃を同一にした部屋のことを混成軌道といい、今回は『Sタイプ』と3つの『Pタイプ』が同一になったので、SP3混成軌道といいます。


大家さんの粋な計らいによって、2階の住人たち全員の婚活は成功し、水素由来の電子と暮らすことになりました。つまり、メタンの完成です。
このように、婚姻関係に基づいた電子同士の結合のことを σ 結合とよびます。婚姻関係は法律に基づいた関係でもあるので、その結合力は強力で安定しています。

ここで少し視点を変えて2階の住人たちの心理的な距離感を考えてみます。
各部屋の電子たちは同じマンションの住人同士ですが、他人に干渉したくないし、干渉されたくもないというのが本音です。そこで、4つの世帯が可能な限り立体的に等しく距離を置こうとすると、必ず正四面体の形になります。つまり、SP3混成軌道は正四面体構造といえます。



4.SP2混成軌道とは?

ところで、2階の住人のうち1人だけ婚活しない場合はどうなるのでしょうか?
アパートの大家さんは婚活をしている住人の部屋だけしか家賃を変えません。ですから、アパートの料金体系は次のようになります。これをSP2混成軌道といいます。


またもや大家さんの粋な心遣いによって3人の婚活は成功しました。3人のうちの2人は水素原子由来の電子と結婚し、もう1人は炭素由来の電子と結婚しました。
このときの2階の各部屋の心理的な距離感も考えてみましょう。

他人にあまり干渉したくないし、干渉されたくもないという電子の性質は基本的に変わらないので、可能な限り等しく心理的に距離を置きます。
しかし、SP3のときと異なり2階の住人全員が既婚者(夫婦)ではありません。日常生活でもそうですが、既婚者(夫婦)と独身者との間には特別な距離感が生まれます。


既婚者同士は同じ平面上でお互いに等しく距離を保った結果、正三角形の構造になります。一方、独身者は可能な限り既婚者たちと関わらない位置(既婚者の平面に対して垂直の位置)をキープします。

こんな独身者ですが、他所のアパートの独身者とは何らかの関係を結びます。この関係を π 結合(二重結合)と呼びます。


 π 結合(二重結合)は σ 結合のように法律に基づいた結合(婚姻関係)ではないので、その関係は壊れやすく、不安定なのが特徴です。


5.SP混成軌道とは?

最後に、2階の住人のうち2人が婚活をはじめた場合を考えてみましょう。
アパートの大家さんは婚活をしている住人の部屋だけしか家賃を変えませんから、アパートの料金体系は次のようになります。これをSP混成軌道といいます。
大家さんの粋な心遣いによって2人の婚活は成功しました。2人のうちの1人は水素原子由来の電子と結婚し、もう1人は炭素由来の電子と結婚しました。
次に、このときの2階の各部屋の心理的な距離感も考えてみましょう。

既婚者同士は同じ平面上で互いに等しく距離を保つため、1本の線構造になります。一方、独身者の二人は可能な限り他の人たちと関わらない位置をキープした結果、下の図のような形になります。

先ほども話しましたが、こんな独身者でも他所のアパートの独身者と何らかの関係を結びます。この関係が π 結合(三重結合)です。



6.まとめ


7.参考文献

岡島光洋『理系なら知っておきたい化学の基本ノート[物理化学編]』中経出版(25~33,101~106ページ)
亀田和久『亀田講義ナマ中継有機化学』講談社サイエンティフィック(10~23ページ)


8.わかりやすい動画





2019年10月10日木曜日

環境計量士のための Point 解説 アミンの塩基性度

はじめに、メチルアミンについて考えてみましょう。
下の図のように、メチルアミンは窒素が非共有電子対を持っているため、H+を受取りやすい性質があります。

ブレンステッド・ローリーの定義では、H+を受取る物質のことを塩基といいます。つまり、この非共有電子対がメチルアミンを塩基性にする働きをしているのです。


アミドは塩基性を示さない!

窒素のとなりがカルボニル基の場合を考えてみましょう。
カルボニル基の特徴は、酸素と炭素の電気陰性度が異なるために分極構造となっている点です。
そのため、窒素の非共有電子対がカルボニル基に電子を供給してしまい、H+を受取ることができなくなります。



ベンゼン環をもつアミンの塩基性は弱い

一方で、ベンゼン環を持つアミンはどうでしょうか?
ベンゼン環に窒素のような非共有電子対を持つ原子が置換すると、オルトとパラの位置が求電子試薬からの攻撃を受けやすくなります。
これは非共有電子対を持つ原子がベンゼンの π結合に電子を供給する働きがあり、ベンゼン環の π 電子密度が大きくなるためです。(詳細はリンク先を確認してください)


したがって、ベンゼン環を持つアミンは窒素の非共有電子対がベンゼン環の π 電子と相互作用してしまい、H+との結合に使われにくくなります。その結果、メチルアミンやアンモニアより塩基性が弱くなるのです。


参考文献

J. McMurry『マクマリー有機化学 第9版』東京化学同人(46~49, 936~941)

2019年10月5日土曜日

Point 解説 先客 "X" と "オルト・パラ配向性"

1.ベンゼンの特徴

ベンゼンの炭素間の不飽和結合( π 結合)は安定しているので、この結合を破壊するような反応はなかなか起こせません。

その一方で、これを破壊しない反応、つまり、水素を別の元素に置き換える置換反応は起こりやすいという特徴があります。

たとえば、高校で学習する有名なベンゼンの置換反応の1つにニトロ化があります。

これは、濃硝酸と濃硫酸の混合液にベンゼンを少量ずつ加え、60℃で加熱すると下の図のようにベンゼンのH+が電子を求めるNO2+(求電子試薬)に置換される反応です。




2.ベンゼンに置換基Xが結合していたら、どうなる?

もし、ベンゼンに先客として置換基Xが結合していたら、NO2+はどの位置で置換反応をするのでしょうか?

考えられる位置は次の3つです。



3.どの位置に置換反応するのかは先客であるXが支配する。

Xが次に挙げる3つの場合、オルトとパラの位置が求電子試薬に置換されやすくなります。

  1. 非共有電子対を持つ原子(フェノールなど)
  2. アルキル基
  3. ハロゲン

これは、置換基Xがベンゼンの π 結合に電子を供給する働きがあるため、ベンゼン環の π 電子密度が大きくなり、オルトとパラの位置が電子を求める試薬(求電子試薬)に攻撃されやすくなる(反応性が活発になる)からです。

逆に、π 電子密度が小さいときのベンゼン環は、メタの位置が求電子試薬に攻撃されやすくなり、ベンゼンの π 結合から電子を吸引する働きがある置換基として、次のものがあります。

  1. ニトロ基
  2. スルホ基(-SO3H)
  3. カルボキシル基(-COOH)
  4. エステル(-COOR)
  5. シアノ基(-CN)など

4.参考文献

J. McMurry『マクマリー有機化学 第9版』東京化学同人(566~575ページ)
亀田和久『亀田講義ナマ中継有機化学』講談社サイエンティフィック(115~133ページ)
亀田和久『大学入試 亀田和久の有機化学が面白いほどわかる本』(208~214ページ)